臼杵の歴史
文化流通に恵まれた歴史ある土地
豊後水道の温暖な潮流に洗われる臼杵の地は、古来、東九州の要地として栄えてきました。
端整なみ姿をみせる数々の磨崖(まがい)の仏たちは、藤原文化(平安後期)の代表傑作として、全国にその名を知られていますが、このような文化をはぐくんだのは、この地が海を介して豊かな先進文化を受け入れる素地にめぐまれていたからです。
この磨崖の文化を育てた郷土武士・臼杵氏は、平安時代ここに臼杵荘(うすきのしょう)を開発、経営しました。
臼杵荘はやがて中央の有力貴族・九条家(摂関家せっかんけの一つ)に寄進(きしん)されて、その保護を受けることになりました。
しかし鎌倉後期になると執権(しっけん)北条氏の支配するところとなります。
南北朝時代、豊後守護の大友氏がしだいに領国支配を固めるのに伴い、臼杵荘は大友氏の直轄地(ちょっかつち)に取り込まれ、以来、大友氏がこれを領有していきました。
戦国時代の英傑、大友宗麟(おおともそうりん)は臼杵を府内(ふない*現在の大分市)と並ぶ政治、軍事上の拠点に定め臼杵城を築城、自らここに移り、キリスト教の保護など進取の政策を積極的に進めました。こうして、臼杵城下は教会やノビシアド(修練院)のある、異国の香りただよう港町として大いに繁栄しました。
慶長五年九月の関ケ原の戦終了後に稲葉貞通(いなば さだみち)が、郡上八幡から臼杵に移されて以後、十五代久通(ひさみち)までに二百七十年に渡り臼杵藩を治めました。
端整なみ姿をみせる数々の磨崖(まがい)の仏たちは、藤原文化(平安後期)の代表傑作として、全国にその名を知られていますが、このような文化をはぐくんだのは、この地が海を介して豊かな先進文化を受け入れる素地にめぐまれていたからです。
この磨崖の文化を育てた郷土武士・臼杵氏は、平安時代ここに臼杵荘(うすきのしょう)を開発、経営しました。
臼杵荘はやがて中央の有力貴族・九条家(摂関家せっかんけの一つ)に寄進(きしん)されて、その保護を受けることになりました。
しかし鎌倉後期になると執権(しっけん)北条氏の支配するところとなります。
南北朝時代、豊後守護の大友氏がしだいに領国支配を固めるのに伴い、臼杵荘は大友氏の直轄地(ちょっかつち)に取り込まれ、以来、大友氏がこれを領有していきました。
戦国時代の英傑、大友宗麟(おおともそうりん)は臼杵を府内(ふない*現在の大分市)と並ぶ政治、軍事上の拠点に定め臼杵城を築城、自らここに移り、キリスト教の保護など進取の政策を積極的に進めました。こうして、臼杵城下は教会やノビシアド(修練院)のある、異国の香りただよう港町として大いに繁栄しました。
慶長五年九月の関ケ原の戦終了後に稲葉貞通(いなば さだみち)が、郡上八幡から臼杵に移されて以後、十五代久通(ひさみち)までに二百七十年に渡り臼杵藩を治めました。
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